テープ起こしが与えた大きな影響
成長を重視するあまり、インフレを許容したり不動産や株式市場のバブルをもたらしたりすることもある。
米国の「サブプライム」問題も、その一例であろう。
経済が複雑化するにつれてお金の流通をコントロールすることも難しくなってきた。
一部には、現在のような自由なお金の印刷を抑制すべきだとの意見も出始めている。
これについては前でもういちど採り上げることとしよう。
金融市場とは実に広い市場である。
銀行間でお金の貸借を行う資金市場を筆頭に、株式や債券を売買する証券市場、為替市場、デリバティブ市場などがある。
銀行貸付もひとつの金融市場であるから、その不良債権を売買するのもひとつの派生的な金融市場である。
最近では不動産を証券化したり、金などの商品価格に連動したりする証券も開発されているが、これらが売買される市場も金融市場の仲間である。
市場とは、そもそも物流の場であった。
たとえば中世ヨーロッパでは、アジアの香辛料を運んできたイタリアを中心とする商業圏と英国の羊毛を毛織物に仕立てた仏フランドル地方との間の取引を、シャンパーニュ地方の定期市が仲介市場となって結びつけていた。
そこでは物流の裏側としての金融取引が必要となる。
モノだけでは交易は発達しない。
物流市場は金融市場の円滑化を要請したのであった。
その金融市場が次第に物流から独立するようになり、とくに資本のグローバルな動きが加速され始めた別世紀後半になってその傾向は強まっていく。
デリバティブを使った取引が急増し、金融市場が急拡大するなかで、ヘッジファンドが暴れ回るようになる。
また、企業買収ファンドが次々に大手企業に買収を仕掛け始める。
情報装置の高度化で個人投資家もデイ・トレーディングに参加し始め、金融市場は「マネーゲーム・センター」とされるようになった。
だが、そうした側面のみを捉えて金融市場の暴走・堕落と批判するのは、尻尾だけを見て犬を語るようなものである。
たしかに現代の金融市場がマネーゲーム化しているのは事実だが、なぜ市場構造がそのように変化してしまったのか。
それを理解せずに批判のみを先行させてはならないだろう。
たとえば、市場の流動性を一気に高めた先物取引は、金融が起源ではない。
コメ取引の価格を平準化させるために大坂の堂島が開発したモデルを、米国の穀物集荷市場であるシカゴが応用して岨世紀半ばに作り上げた技術である。
現在ではそれが貴金属や通貨、債券、株式などにも利用されている。
この先物市場がなければ、早越や酋墨作などの需給のプレはむしろ極端な価格変動を生んだことだろう。
これは生産者だけでなく消費者の生活をも直撃する。
コメ先物市場のない日本のコメ価格が安定しているのは、農家の生産調整と政府介入によって管理されているにすぎず、その失敗のツケは納税者や消費者に回ってくるのである。
同じように、国債先物がなければ財政政策の変化によって金利の水準はもっと大幅に変動することだろう。
それは住宅ローン金利の急騰につながるかもしれない。
また、株式先物があったおかげで、資産運用業者は投資家の相場下落への不安を鎮めるためにヘッジすることができる。
原油先物市場を積極的に利用すれば、ガソリン業者や航空会社は消費者へのコスト転嫁をもっと和らげることができるかもしれない。
先物に比べてオプションやスワップはややわかりにくいが、これも市場変動リスクに対応する手段として利用されたほか、お金の貸借関係を円滑化したという意味でも貢献度が高い。
日本企業において、全世界で最も調達コストの安い場所を選んで債券を発行する、といった財務行動が可能になったのは、こうした技術のおかげである。
その結果、我々も安定した物価環境を享受している。
デリバティブは、金融における価格革命でもあると同時に、市場構造革命でもあった。
金融市場におけるマネーゲーム化現象は、この金融革命に宿命的に付随することになった副作用として捉え、その悪影響をいかに最小化すべきかを考えるのが筋である。
その副産物だけを採り上げて現代金融そのものを批判するのは、産業革命への適正な評価を忘れ、労働者の疎外問題だけを誇張して企業経済社会を悪質だと批判する姿勢と同じようなものであろう。
お金は付加価値を生むのか金融に対するもうひとつの嫌悪感は、お金を右から左に流して利益をあげることに対する、倫理的あるいは生理的な反感である。
商社が「モノを売買」して利益を得る行為にはそれほど批判は強くないが、金融機関やファンドなどが「お金を売買」して利益をあげることには、日本には特に強い抵抗感があるようだ。
そこには、お金に対する静的なイメージが付着している。
テレビがテレビであるように1000円というお金は1000円でしかないという発想は、1000円というお金が1200円にも育つ可能性がある、という考え方を受けつけないのだろう。
それはお金を「資金」として見る態度であり、お金が「資本」になることを想定していない。
大半の人は、資金と資本の区別がつかないのではないのかもしれない。
たとえば財布に入っている1000円札は、資金である。
それは雑誌を買う資金であるかもしれないし、弁当を買う資金かもしれない。
だが財布に入っている時点では資本とはいえない。
それが経済的な意味での資本になるのは、株式や社債、貸金などの形で資本主義のシステムに投じられた瞬間である。
たとえていえば、ガソリンスタンドに貯蔵されているガソリンが、その時点ではエネルギーとはいえないのと似ている。
ガソリンは、自動車のガソリンタンクに注入された瞬間にエネルギーたる資格を得るのである。
財布の資金も、金融市場を通じてはじめて資本になる。
その1000円の資本は、1500円になる可能性もあれば、紙屑になることもある。
「お金を売買する」というのは、人を介して1000円を2000円に増やすのとは意味が全く違う。
この場合のお金とは「資金が資本に転換された」形態を指している。
マルクスを引用するまでもなく、資本は再生産され拡大されなければ資本主義は成立しないのである。
資本主義に慣れ切った世界では、資本の存在自体が過小評価されているようにも思っても、この資本の論理を強引に解釈して、企業に無用な人員削減や事業売却を迫ったりするアクティヴィストと呼ばれる投資家が増えているのも事実である。
これはたしかに大きな社会問題を旺胎するものであり、「お金を売買する」文脈から外れた行為として批判的に見る姿勢が必要だろう。
効率的な資本の拡大再生産は、安定的な経済成長や健全な雇用環境と平灰を合わせるものでなければならない。
その意味では、「儲けて何が悪いんですか」という不遜な態度は批判されて然るべきである。
昨今のスポーツ界でも「強ければ何をやっても許される」という風潮が散見されるが、これがマナー違反であるのと同様に、資本の量的拡大だけを是とする「お金の売買」もまた現代資本主義におけるディシプリン(規律)に反するものであることは明確である。
やや話題が逸れたが、金融の健全な発展、つまり金融力の増強はこれからも経済の発展を促し、我々の生活水準の向上に貢献する役割が期待されている。
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